押江薫
母のガスオーブンと、夜間学校で見つけた「なりたい自分」
まずは、押江さんの生まれ育った群馬県渋川市とは、どのような町なのか教えてください。
押江:渋川は緑が多くて、人も気質がのんびりしている住みやすい町です。私は渋川生まれの渋川育ちで、ここから一度も出たことがないので他の町の良さと比べることはできないのですが、とても居心地がいいですね。働き者の女性が多くて、女性が強いというか「かかあ天下」みたいなところもあるかもしれません。縄文土器などの遺跡も多くて、実は私、土器のミニチュアを集めたりもしているんですよ。
子どもの頃はどのようなお子さんだったのでしょうか?
押江:昭和生まれということもあって、とても自由な環境で育ちました。性格はどちらかというと男の子っぽくて、やんちゃでした。とにかく外をよく走り回っているような、活発な子どもだったと思います。
ご家庭での「食」に関する思い出で、今の押江さんに繋がっているような出来事はありますか?
押江:実家の母の存在がとても大きいです。母は、毎日の料理も梅干しも、本当に何から何まで全部手作りする人でした。家にガスオーブンがあるような家庭だったんです。当時はそれがみんなの家にもある当たり前のものだと思っていたのですが、結婚した時に夫から「家にガスオーブンなんてある家はないよ」と言われて、「えっ、そうなの?」と驚いたくらいです。母が毎日の食事をとても大事にしてくれたからこそ、私も「食を大事にしよう」と自然に思えるようになったのだと思います。
お母様の影響は、食事以外の面でも受けていらっしゃるのでしょうか?
押江:ええ、実は着付けの資格も持っているのですが、それも母の影響だと思います。母が普段から着物を着ているような人だったので、それを見て育ったから自然と着物が好きになったんでしょうね。自分が大人になって振り返ってみると、生活のベースとなる部分の多くを母から受け継いでいると感じます。
ご自身で「食」の道へ進むと決めたきっかけは、どのようなものだったのですか?
押江:20歳を過ぎた頃に、母から「自分に投資しなさい」と言われたのがきっかけでした。それで料理教室に通い始めたら、意外とすっかりハマってしまったんです。その料理教室の先生が、考え方も立ち振る舞いも、お料理をしている姿も本当に素敵な方でした。「こんな風になりたいな、かっこいいな」と憧れて、私も資格を取ろうと決心しました。
素晴らしい出会いがあったのですね。学生時代から食に関するお仕事をされていたのですか?
押江:そうですね、昔から美味しいものを食べることが大好きだったので、学生時代のアルバイトも複合施設のフードコートにあるラーメン屋さんなどで働いていました。一度社会に出て別の仕事に就いた後も、24歳で働きながら夜間の専門学校に通って調理の勉強を続けました。やりたいことが見つかったらやろう、という気持ちが昔から根底にあったのだと思います。
「やるやる詐欺」からの脱却。孫への想いと長年の夢の狭間で
開業届を出されたのは去年の3月とのことですが、それまではどのようなお仕事をされていたのですか?
押江:幼稚園の給食を作る「給食のおばちゃん」と、保育補助の資格を持っているので保育園の先生の補助をしていました。子どもたちが大きくなっても、当時の給食の味は絶対に覚えていると思うんです。だからこそ、すっごくやりがいのある仕事でしたね。
それほど大好きだったお仕事を辞めて、ご自身のベーグル店を開業することには、大きな葛藤があったのではないでしょうか?
押江:辞める時は本当にすごく悩みました。実は、私が勤めていたこども園は、私の夫も子どもも通っていた、代々ご縁のある園だったんです。だからこそ、自分の孫もそこへ通わせて、孫に自分の作った給食を食べさせたいというのが長年の夢でもありました。
お孫さんに手作りの給食を食べさせるか、自分の店を持つか。心揺さぶられる選択ですね。
押江:そうなんです。でも、自分のベーグル店をやるというのも、何十年も前からの夢でした。周りにはずっと「やるやる」と言い続けていて、完全に「やるやる詐欺」状態だったんです(笑)。両方を追いかけると中途半端になってしまいますから。色々と考えた末に、「どうせお先は短いんだから、やりたいことをやっちゃおう」と、最後は思い切って決断しました。
数あるパンの中で、なぜそこまでベーグルに惹かれたのでしょうか?
押江:もともとベーグルに対して「偏愛」を抱いていたんです。一番最初に出会ったのは、先ほどお話しした料理教室でした。先輩の先生が東京で習ってきたものを教室で作ってくださって。まだ世の中でベーグルが流行るずっと前のことでしたが、一口食べて「なんじゃこれは!」と衝撃を受けました。それからレシピをいただいて自分でも作るようになり、周りの人にも「美味しい」と言ってもらえたのが原点ですね。ずっと飽きないですし、ベーグルが好きなんです。
押江さんが考える、ベーグルの一番の魅力は何ですか?
押江:決まりがなくて、自由なところが好きです。おにぎりみたいな感覚で、中に何でも入れられちゃうし、アレンジの幅が無限大なんです。作り手によって硬かったり柔らかかったり、形も全然違う。ずっと考えていても飽きないですし、作っていて本当に楽しいですね。

1g、1分、1℃への執念。孤独な深夜の仕込みさえも面白がる
お店の屋号である「七宝(しっぽ)ベーグル」というお名前には、どのような思いが込められているのでしょうか?
押江:日本の伝統的な文様である「七宝柄」から名付けました。この模様には、円が連鎖していくことから「五円満(ご縁)」が広がるという意味があるんです。宝石などの物質的なものよりも、人との「ご縁」の方が大事だよ、という想いを込めました。私自身、人生のベースとして家族や周りの人との縁を一番大切に生きてきたので、ご縁を大事にするベーグル屋さんになりたいと思ったんです。英語よりも漢字の方が覚えてもらいやすいかな、という理由もあります。
現在作られているベーグルの「こだわり」について教えてください。
押江:私の父のようなお年寄りから、小さなお子さんまで、誰にでも安心して食べていただけるように、結構柔らかめのもちもちとした食感にこだわっています。食べてもらって、元気になってもらえたらなと思っています。材料は北海道産小麦を100%使用しています。何十種類もの小麦を試して、ベーグルに強い偏愛を持っている夫に食べてもらい、彼から「これ、いいね」と厳しいオッケーが出たものだけを選び抜きました。
「1g、1分、1℃」という非常に緻密な数字を掲げていらっしゃいますね。
押江:手間暇をかける製法として、湯種(ゆだね)製法や低温長時間発酵を取り入れています。大量生産する大手では難しいことでも、私は数は作れなくても手間暇ならかけられると思ったんです。美味しくなるためには、一番大変なことを選ばないといけません。「なぜこんなにもちもちしているの?」とお客さんに聞かれたときに、自分がやっている工程を振り返ってみたんです。パン職人さんが肌感覚で無意識にやっていることをきちんと言語化して伝えようと思ったのが「1g、1分、1℃」という言葉でした。

お一人での製造となると、毎日のスケジュールはかなり過酷なのではないですか?
押江:イベント出店に合わせて、1日目に消毒と粉の計量を行い、2日目に生地をこねて分割し、成形して寝かせます。そこから少し仮眠をとって、夜中の1時頃から焼き始めます。焼き上がった後の袋詰め作業だけで12時間くらいかかってしまうこともあって、1人でやっている分、確かにスケジュールは過酷ですね。
孤独な深夜の作業や、思うようにいかないことも多い中で、どうやって乗り越えているのでしょうか?
押江:全然うまくいかないことばかりですよ。でも、もうこの年齢ですから、うまくいかないことも含めて「なんとか楽しんじゃおう」と思っています。すんなり成功してしまったら、逆につまらないじゃないですか。試行錯誤しながらやるのが楽しいんです。徹夜明けでイベントに行って「ふらふらだ」と思っても、お客さんから温かい言葉をいただくと疲れが吹き飛びます。毎回、出会う人たちに支えられていて、本当に感謝しかありません。それが私のエネルギー源であり、一番大事にしている「ご縁」です。
パワースポットから広がる縁。着物姿でベーグルを焼く日まで
今回、マルシェに出店を決めた理由を教えてください。
押江:草津は昔から大好きな場所なんです。子どもの頃から家族で何度も訪れましたし、大人になってからは夫とのデートで行ったり、自分に子どもができてからも頻繁に通っています。温泉はもちろんですが、熱帯圏も好きですし、何より緑が多くて活気がある。非日常を味わえてリフレッシュできる、私にとってのパワースポットなんです。だから、そんな大好きな草津で出店できるなんて、まるで夢のような話だと思って、ダメ元で応募させていただきました。
押江さんにとって、人生の節目節目で訪れる大切な場所なのですね。現在は実店舗よりも、あちこちのイベントへ出店されることが多いとお聞きしました。
押江:はい、現在は月に1回程度の店舗販売以外は、毎週末さまざまな場所でイベントに出店しています。まだ開業して1年目なので、地元の渋川でずっとお店を開けていても、なかなかお客さんには来ていただけないと思うんです。ですから、まずはいろいろな場所へ自ら出向いてチラシを配ったりして、「七宝ベーグル」の名前を覚えていただくことを目標にしています。
ベーグル作りの合間に、古い小麦粉を再利用したミニチュア飾りパンも作られているそうですね。
押江:はい、開封して風味が飛んでしまった古い粉などの廃材を捨てるのがもったいなくて、それを再利用して乾燥させ、ニスを塗ってミニチュアの飾りパンを作っています。お店で販売もしているんですが、そういう細かい作業をするのがとても楽しくて、私の良い気分転換になっています。
最後に、これから5年、10年先に向けて、どのような未来を描いているか教えてください。
押江:あまり欲張らずに、無理をせず、コツコツとご縁を重ねていけたらいいなと思っています。当面の野望としては、60歳くらいまでには実店舗を構えたいですね。店舗ができたら、イベント会場のようにお外では難しい揚げベーグルやサンドイッチなど、バリエーションも増やしていきたいです。そして一番の夢は、おばあちゃんになって腰が曲がっても、大好きな着物を着ながらベーグルを作り続けることですね。
編集後記
長年抱き続けた夢を叶え、試行錯誤の毎日さえも「楽しんでしまおう」と笑う押江さんのお話を伺い、心がじんわりと温かくなりました。ご家族との思い出や、料理教室での出会い、そして各地で出会うお客様。それらすべての繋がりが、手間暇のかかる深夜からの仕込みさえも、心から楽しむエネルギーとなっているのでしょう。「ご縁」を何よりも大切にする彼女の周りには、これからも温かな笑顔の輪が広がっていくはずです。七宝ベーグルが紡ぐこれからの物語が、とても楽しみです。