円城寺優子
胸をときめくレコードとの出逢い。今の活動へと繋がる豊かなカルチャーの原体験

ご出身は東京都の国立市とのことですが、どのような環境で育ったのでしょうか?
円城寺:国立市は、一橋大学や音大、専門学校などが集まる学園都市なんです。区画整理がされていて道路も広く、ヨーロッパのような街並みが広がっています。大学通りという大きな一本道があるんですが、春は桜並木になり、秋には銀杏が黄色く紅葉して、12月になるとその木々にイルミネーションが灯る、とても美しい風景の町です。
四季折々の風景が生活に溶け込んでいるのですね。文化的な面でも影響を受けることはありましたか?
円城寺:そうなんです。文化的な土壌も豊かで、「天下市(てんかいち)」という街を挙げたお祭りがありました。秋の3日間、大学通りが歩行者天国になって、端から端までお店が並ぶんです。ステージではダンスやライブが行われ、少年野球チームがバザーをやったり。ライブハウスもあって、私も高校生の頃からバンドを出させてもらったり、初めてDJをやらせていただいたりしました。都会のカルチャーにも小さい頃から慣れ親しんで育ったので、音楽もアートも盛んな、すごく恵まれた環境だったなと思います。

現在の活動のルーツとなる「音楽」との最初の出会いは、どのようなものだったのですか?
円城寺:幼稚園の時でしたね。『西遊記』というテレビドラマがあって、そのテーマソングを歌っていた「ゴダイゴ」のサウンドトラックを買ってもらったのが始まりです。バンドメンバーに海外の方がいて、曲の中に電子音の「ピコピコ」という音が入っていたんです。それが私にはとてもキラキラした音に聞こえて心を奪われました。そこから少しずつ音楽の世界にのめり込んでいきました。
幼稚園児でゴダイゴのサウンドトラックに惹かれるとは、かなり早熟ですね! ご家族の影響もあったのでしょうか?
円城寺:父が映画好きで、深夜にたくさんの映画を見ていたんです。それを横で一緒に見ているうちに、海外映画のサウンドトラックが耳に染みついていきました。それに加えて、通っていた中学や高校にはフランス語の授業があり、先生が毎回ジャン=リュック・ゴダールのようなお洒落なフランス映画を見せてくれたんです。特に『ロシュフォールの恋人たち』という、パステルカラーの衣装で街全体がミュージカルをしてしまう映画が大好きになって。映像と音楽の結びつきに強く惹かれるようになりました。

映画音楽が、さらに深いカルチャーの世界へと導いてくれたのですね。一方で、長年ボランティア活動も続けられてきたと伺いました。カルチャーに没頭する傍らで、福祉に関わるようになったきっかけは何だったのでしょうか?
円城寺:高校生ぐらいの時に、家の近くにある障害のある方の施設へボランティアに行かせていただいたのが始まりです。そこから、一つの団体に所属するというよりは、色々な活動に自然と関わってきました。東日本大震災の後は、福島の原発周辺に住む子どもたちを放射能から守るため、「保養ツアー」のスタッフをしていました。
「保養ツアー」とは、どのような活動だったのですか?
円城寺:春休みや夏休みなどに、30人から多い時は70人くらいの子どもたちをバスに乗せて、東京や山梨など少しでも放射能の影響が少ない場所へ連れ出し、自然の中で思いっきり遊んで英気を養ってもらう活動です。外遊びができなかったり、土を踏んだことがない子どもたちも多くいました。ある時はクラウドファンディングで資金を集めて、三宅島付近の御蔵島というところに子どもたちを連れて行き、野生のイルカと一緒に泳いで心を癒やしてもらう「ドルフィンツアー」も企画しました。
それは子どもたちにとって、忘れられない体験になったでしょうね。コロナ禍などでも、何か支援の活動をされていたのですか?
円城寺:学校が急に休校になり、働きに出ているシングルマザーの方などが子どもを預ける場所がなくて困っていたんです。そんな時、私が働いていた農園レストランの場所を開放していただき、子どもたちが自由に遊べる場所を作りました。給食費が払えないご家庭のお子さんもいたので、差が出ないように、ボランティアの方たちと朝8時から毎日約100人分のカレーを無料で作り続ける活動をしていました。

毎日100人分のカレーを作るのは大変なご苦労だったと思います。その活動の中で、特に印象に残っているエピソードはありますか?
円城寺:情報を知らなかった子どもたちが、噂を聞きつけて10キロも離れたところから自転車でやって来たことがありました。「お皿もスプーンもないんですけど、僕たち食べれますか」と、勇気を出して話しかけてきてくれた時は、本当に感動しました。「ああ、私はこういう子たちのために活動をやりたかったんだな」と心から思いましたね。ご飯が底をついてしまった時も、「もう一回作ってもらえませんか」と言われて、みんなで一生懸命ご飯を炊き直したこともありました。
子どもたちの姿が、活動の大きなエネルギーになっていたのですね。そもそも、長年こうしたボランティア活動に関わろうと思ったきっかけや、誰か影響を受けた人はいるのでしょうか?
円城寺:特に誰かに影響されたと意識したことはありません。「誰かがやんなきゃしょうがないでしょう」っていう、ただそれだけなんです。やる人がいなければ、私がやるか、と。情報を聞いて、自分ができると思ったらもう行っちゃうし、すぐに行動してしまう性格なんですよね。「なんとかなる」と思って飛び込んでしまうんです。
「私、ここに住みたい!」直感から即就職へ。名湯が引き寄せた数奇なご縁
音楽やボランティア活動に情熱を注いでこられた中で、草津へ移住することになったきっかけは何だったのでしょうか?
円城寺:もともと温泉が大好きで、長野で友人が定期的に企画しているイベントでDJをするために通っていたんです。その時に知人から「草津も近いから行ってみる?」と勧められて足を運んだのが最初でした。湯畑を見て、「何ここ、24時間温泉に入れるんだ!」と衝撃を受けましたね。
初めて見たときの感動は大きかったのですね。
円城寺:最高じゃないですか。しかも無料で開放されている共同浴場があるなんて。熱いお湯が好きだったので、「これは全部制覇したいな」と思い、長野へ行くたびに草津の温泉を楽しむようになりました。

そこから、「通う」だけでなく「移住する」へと気持ちが変わっていったのには、何か理由があったのですか?
円城寺:実は当時、痛みを伴う疾患を抱えていたんです。でも、できるだけ薬には頼りたくなくて、何かいい方法はないかと探していました。ある時「煮川の湯」に入ったら、川崎から10年通っているという癌の患者さんがいらっしゃって。「長く通っているということは、それだけお湯が効いているんだな」と思い、私も自分の身体で実証実験のつもりで、定期的に草津の温泉に通って湯治をしてみることにしたんです。実際、この2年間で痛みが本当に緩和されて、痛くなくなったんです。私にはすごく合っているんだなと実感しています。
それは素晴らしいですね! しかし、湘南から草津に通うのは距離的にも大変だったのではないでしょうか?
円城寺:そうなんです。ガソリン代もかなりかさみますからね。ある時、草津の町を歩いていたら、昔のデザイナーズマンションのような面白い形をした宿泊施設を見つけて。「私、ここに住みたい!」って、ふと思っちゃったんですよ。
またしても「直感」ですね。そこからどう行動されたのですか?
円城寺:すぐに町役場へ行って、「あそこに入るにはどうしたらいいですか?」と相談しました。そこが町営住宅だということが分かり、「とりあえず名前を書いておいて」と言われたので書いて帰ったら、たまたまキャンセルが出て入れることになったんです。
すごいタイミングですね! でも、町営住宅となると入居の条件などもあったのではないですか?
円城寺:ええ。町民であることや、町で仕事をしていることなど、いくつか条件がありました。それをクリアするために「どこかで働かないと!」と思い、さっき通りかかったコーヒー屋さんにスタッフ募集の貼り紙があったことを思い出して、慌てて戻ったんです(笑)。
行動のスピードが凄まじいですね。結果はどうなりましたか?
円城寺:「ちょっとスタッフをしたいんですけど」と伝えたら、「じゃあ早速社長に会ってくれ」ということになり、その日のうちに面接をして即採用が決まりました。それが今も働いている「リフトアップコーヒー」です。物事がうまく流れる時って、すんなりと進んでいくものだなと思いました。これも一つのご縁だと思っていますが、そのご縁に思い切り乗っかった形ですね。
山の上の不便さと濃密な人間関係。戸惑いを越えて仕掛ける、カルチャーの新たな循環
直感と持ち前の行動力で移住を実現されましたが、実際の草津での暮らしはいかがですか?
円城寺:私はずっと首都圏の便利なところで暮らしてきたので、地方での暮らしが初めてだったんです。直感と勢いで移住してきましたから移住を実際に体感して、苦労した部分も正直たくさんあります。
田舎暮らしの洗礼を受けたのですね。どのような部分に一番戸惑いを感じましたか?
円城寺:自然環境そのものは本当に素晴らしいんです。白根山の山頂へすぐに行けるし、空気も景色も最高で。写真が趣味なので撮影スポットもたくさんあるし、最近はスノボーとスケボーも再開してハマっています。水道水も美味しいし、温泉も言うことありません。
ただ、東京のようにすぐ何でも買いに行けるわけではなく、「草津にないものは、山を1時間降りたところへ買いに行かねばならないこと、ガソリンと灯油代がかさむこと、など、暮らしてみて学ぶこともたくさんあります
また、いいところもたくさんあります。草津のおばあちゃんおじいちゃんは、80、90歳でも本当にお元気で、春になると、老人会の方々が町中の花壇にたくさんの様々なお花を植えてくださり、町をお散歩するのが楽しくなります。お話も大好きで、よく人生相談にのっていただいています。

買い物の利便性は、都市部とは大きく異なりますからね。人間関係や地域のコミュニティの面ではどうでしたか?
円城寺:思っていた以上に町の人口が少なく、実際に草津町に住んでいる住民の数は限られているんです。リゾートバイトで来ている方はたくさんいますが、地元の人は小さい頃からお互いをずっと知っているという環境で。だから、どこへ行っても登場人物が一緒なんです(笑)。
関係性がとても濃密なのですね。
円城寺:そうなんです。だから、1日で噂話がすぐに回ってしまうことには本当にびっくりしました。お風呂に行っても会う人は一緒ですし、暮らしが密着していて関わりがとても密なんですよね。最初は少し戸惑いました。
都会とは違う距離感に、どのようにして慣れていったのでしょうか?
円城寺:今は、程よい距離を保ちながら上手にお付き合いされている先輩移住者の方を見習っています。先に移住された方々が築いてきた信頼関係を壊さないように、私たちも町の方々をリスペクトしながら、少しずつ歩み寄るように心がけています。それに、「リフトアップコーヒー」の社長のご家族皆さんには本当によくしていただいていて、足を向けて寝られないくらい感謝しているんです。このご縁を大切にしていきたいですね。
現在は「湯畑Records.」の運営企画などもされていますが、具体的にどのような活動をされているのですか?
円城寺:草津には、何か活動したいと密かに思っている人がたくさんいると思うんです。私自身もそうですが、周りには素晴らしい活動をしているミュージシャンやクリエイターが大勢います。「湯畑Records.」は、そうした人たちと地域を繋ぐパイプ役になれたらと思いスタートしました。レコードと民謡とストリートカルチャーを掛け合わせ、草津から新しい文化を発酵させる実験場として活動しています。

誰も「1人にしない」。アートと福祉が溶け合う、温かな町を夢見て
これから未来に向けて、草津町を通してやっていきたいことや、円城寺さん自身の展望について教えてください。
円城寺:マルシェなどの活動を通じて、子どもたちに「世界は広くて、いろんな文化やいろんなお仕事があるんだよ」ということを伝えていきたいです。視野を広く持って、自分の人生の選択肢の一つにしてくれたら嬉しいですね。例えばDJというと、テレビで見るような派手なイメージを持たれがちですが、ジャズや日本の民謡など、素晴らしい音楽の魅力を伝える役割もあります。草津には「草津節」という素晴らしい民謡がありますし、そういった多様な音楽に触れてほしいと思っています。

子どもたちへの想いについて伺いましたが、それ以外にも、海外からのお客様へ向けた構想などはお持ちですか?
円城寺:はい。ホテルや旅館のラウンジをお借りして、海外のお客様に和菓子の実演やお抹茶を楽しんでいただいたり、お琴や三味線を現代風にアレンジしたパフォーマンスをお見せしたいと考えています。海外に行くと、日本の文化が歪んで伝わっていることがあって。「緑茶に砂糖を入れる」とか、「ドーナツを天ぷらって呼んで売っている」とか(笑)。せっかく日本に来ていただいたのだから、日本の奥ゆかしい美しさや「和の文化」を正しく学んで帰ってほしいんです。
草津という土地の魅力を、さらに引き出すアイデアは他にもありますか?
円城寺:私がやりたいのは、空き店舗や空き家をポップアップのギャラリーとしてお借りして、アーティストの発表の場にすることです。街中を巡るスタンプラリーにしたり、アーティストが草津に滞在しながら、お湯に入ってインスピレーションを得て作品を作る「体験・滞在」の仕組みを作りたいんです。
湯畑を見て即興音楽を作ったり、着物を見て絵を描いたり、というようなことですね。
円城寺:そうです! 草津はインスピレーションが湧く町なんです。昔から名だたる文豪たちが草津にいらしたように、そうした文化人の後継ぎとなるような活動を私たちがしていけたらと思っています。それが草津のプロモーションにもなるし、移住促進にも繋がると信じています。

お話を伺っていると、文化やアートを通じた町づくりへの情熱がひしひしと伝わってきます。最後に、円城寺さんが草津で描く一番の「夢」を聞かせてください。
円城寺:色々とお話ししましたが、私の究極の夢は「フードバンクと子ども食堂を併設した、ギャラリーのようなコミュニティスペースと音楽スタジオをつくり、国内、世界各国の音楽やアート、文化を通して、交流できる場をつくること」なんです。そして、「草津温泉フェス」を開催して、町中が一つになること。働く人たちも、子どもも大人も一つになって、暮らしを豊かに創造していくような、強い地域コミュニティを作りたいんです。
長年のボランティア活動で培われた「誰かのために」という想いが、草津の地でも繋がっていくのですね。
円城寺:そうですね。誰も「1人にしない」、誰もが平等に暮らしやすい町で、「また来たい」と思える場所にしたいです。できる人が、出来ることでお互いに助け合う。そんな丁寧な暮らしを育む活動を、この草津でずっと続けていきたいと思っています。

編集後記
都会のカルチャーを肌で感じて育ち、長年ボランティアで誰かのために走り続けてきた円城寺さん。「やる人がいなければ、自分がやる」という潔い言葉の裏には、困っている人を放っておけない温かさと、未知の世界へ飛び込む勇敢さがある。地方移住のリアルに直面し、時にはコミュニティの近すぎる距離感に戸惑いながらも、彼女は持ち前の行動力と周囲へのリスペクトで、草津にしっかりと根を張りつつある。音楽、アート、そして福祉。一見バラバラに見える点と点が、草津という町で「湯畑Records.」という一つの線になり、さらなる広がりを見せようとしている。彼女が描く「誰もひとりにしない」という夢は、着実に形になり始めている。