
外山 今日子さん
はじまりは山梨の小さなパン店。そこでの経験が気づけば自分の原点に

まず初めに、外山さんがパン作りをはじめたきっかけを教えて下さい。
外山:結婚する前に、山梨県の小淵沢に住んでいた時期があったんです。そこでご夫婦が営む小さなパン店にすっかり魅了されてしまって。最初はただのお客さんとして通っていたんですけど、パンがとても美味しいのはもちろん、お店の雰囲気や、ご夫婦のお人柄も含めて丸ごと惚れ込んでしまったんですよね。だから自然に「パン作りを教えてほしい」とお願いして、1年半くらい働かせてもらいました。
その経験がこのお店にも影響しているのですね。
外山:そうですね。私はそのお店しか経験がないというのもあるのですが、そこでのイメージが「Kogomipain」の店の雰囲気や、メニュー作りに活かされています。特にハード系のパンはそこで学んだ作り方がベースになっています。だから、店のルーツは、山梨時代の記憶が流れ続けている感じですね。
ご出身は埼玉とのことですが、小さい頃にパンとつながる原体験があったのでしょうか?
外山:原体験というと、母が自宅で焼いてくれたパンだったと思います。焼きたての香ばしい香りや温もりを身近に感じたのが、パンのおいしさを知った最初の記憶です。
その後、草津に移住するまではどのような生活を送っていたのでしょうか?
外山:山梨での生活を経て結婚後、東京へ拠点を移しました。港区・白金で約10年を過ごすなかで、娘も誕生しました。当時の白金は再開発前で商店街も残っていて、青果店のお母さんや精肉店のおばちゃんが気さくに声をかけてくれるような、あたたかくて暮らしやすい場所でもあったんですよ。ただ、都心ならではの「土がない」「空が狭い」「自然の気配を感じない」ことにストレスを感じていました。山梨で感じた自然の空気を知っていたからこそ、「いつかはまた自然豊かな場所で暮らしたい」という思いはずっとありましたし、家族の中でも移住したい、という気持ちが芽生えていました。ただ娘は当時小学生だったので、今振り返れば育った場所を離れることに対して複雑な気持ちだったかもしれないですね……。

東京から草津へ。“ご縁”が導いた新しい暮らしと商い

そもそも草津町との出会いは、どんな場面だったのでしょうか。
外山:草津町は、もともと学生時代の友人の出身地だったんです。その縁で遊びに来ることがあって、その友人のお母さんにとてもお世話になったので、草津には“頼れる人がいる”という安心感がありました。
最初は遊びに来るだけでしたけど、「どこかへ移住したい」と考えたときに、自然と“人とのつながりのある場所”として草津がふと頭に浮かんでくるようになりました。そうして何度も草津に訪れるようになると、温泉が日常にあることの豊かさに改めて気づき、「草津のお湯ってこんなにみんなに愛されているんだ」と、草津の魅力をより一層感じるようになりました。
移住を考える上でどのような点が決め手に?
外山:自然に囲まれた環境で暮らしたいというのが必須条件でした。賑やかな湯畑から少し離れるだけで、森に包まれた静けさが広がっている。中心地ではなく、自然に囲まれた静かな環境だからこそ、山梨で出会ったお店のように“ゆっくり過ごせる雰囲気”を感じてもらえるのではと思ったんです。勢いもありましたけど、「これはご縁だ!」と思い切って移住を決めました。
なるほど。実際に移住するうえで住まい探しなど大変なことも多かったと思います。
外山:そうですね、住まいについて最初に考えたのはマンションか町営住宅だったのですが、いくつか別荘も見て回る中で、この別荘地が一番しっくりきたんです。しかも5月の新緑の時期に物件探しをしていたので、そのタイミングの眺望があまりにも素晴らしくて(笑)。太陽の光に照らされてキラキラ輝く新緑を眺めながら「ここに住みたい」とワクワクしてしまい、2015年の夏に引っ越しました。

草津の冬は厳しいと思いますが……抵抗はなかったのでしょうか?
外山:この店の場所は草津の町の中でも雪深いエリアなので、移動するのも大変な時季もあります。ですが、それ以上に静寂に包まれた冬の風景が、私の心を穏やかにしてくれると思うようになりました。季節の巡りを五感で感じられるようになったのは、この地に住んで一番の収穫かもしれません。
その後、草津で過ごす中で自分のお店を持ちたい!という思いが強くなっていったと。
外山:そうですね。移住してすぐは友人との繋がりで、旅館「源泉大日の湯 極楽館」の2階にあるカレー店「Neue Post(ノイエポスト)」で働いていたんですが、次第に「自分で何かやりたい」という気持ちがふつふつと湧いてきました。開業の選択肢はいろいろありましたが、山梨での経験がずっと自分の心に残っていたので、「パン店に挑戦してみたい」というのは自然に決まっていたのかもしれません。

「なんとかなる」の精神で歩んだ10年。日々に寄り添うパンを目指して

ここからオープンに向けて動き出すわけですが、どのようなプロセスだったのでしょうか。
外山:この物件を決めたのが移住した2016年の3月でした。というのも、元々別荘として借りていた前の住人の方が出られて、不動産会社から「もうすぐ空きますよ」と聞いて。内覧してみたら、大きめのキッチンスペース、業務用の冷蔵庫やオーブンを置くことができるスペースも整っていて、すぐにでも始められるような場所だったんです。だから「じゃあここでやろう」と。あまり深く考える間もなく、2カ月後の5月には店をオープンしていました。
そんなに早く! 時間がない中、準備は大変ではなかったですか?
外山:時間をかける余裕も体力もなかったというか、店内を改装している間も家賃が発生してしまうので「少しでも早く開店するしかない」と(笑)。ほとんど手を入れずに使える建物だったのは幸運でしたね。だからこそ、スピード感を持ってスタートできました。当初からカフェスペースは欲しかったので、テーブルや座敷スペースを用意して、外にもベンチを置いて。草津の澄んだ空気と、木の間を吹き抜ける柔らかなそよ風が一体となったくつろぎの空間。その心地よさを、お客さまにパンと一緒に味わってほしかったんです。

ここならではのロケーションを楽しんでほしいという思いがあったのですね。
外山:そうですね。都会では味わえない森の中ならではの、ゆったりとしたリラックスできる時間を過ごしてもらいたいと思います。場所が少し分かりにくいので「行きにくいね」とか「坂ばっかりだね」と言われることもあります。でも、「道は迷ったけど、矢印を辿って来たらすごく楽しかった」と言っていただけることの方が嬉しいんです。
オープン当初、地元の方々からの反応はいかがでしたか?
外山:地元の方からは「パン店は長く続かないよ」ってすごく言われました。草津では過去にいくつも店が出来てはやめていったそうなんです。だから「すぐ撤退するんじゃない?」と心配されたり……。でもその一方で、「草津にこういうパン店はなかったから、ぜひ長く続けてね」と応援してくださる声も多く、自分の励みになりました。
それでも実際に店を10年続けてこられた秘訣は?
外山:あくまで自分の手が届く範囲で、目の前の仕事に精一杯取り組んできたことでしょうか。大きく広げようとするのではなく、日々の積み重ねを大切にしてきたからこそ、ここまで続けてこられたのだと思います。観光地なので、ゴールデンウィークや夏休みの繁忙期は目が回るほど忙しいですが、一方で稀に冬は「今日はかろうじてお客さんゼロじゃなかった……」とヒヤヒヤする日もあるんです。でも、それでもいいと思える規模だったから続けてこられました。パンが売れ残る日もありますが、そういう経験も含めて「続けていればきっと大丈夫」と思えるようになりました。深刻に考えすぎず、“なんとかなるさ”という気持ちでやり続けてきたのが大きいですね。

パンの種類や味わい、そして素材の選び方など、ここみパンならではのこだわりについて教えてください。
外山:現在は10種類前後を焼いています。開店当初はバゲットをはじめとするハード系が中心でしたけど、だんだんと菓子パンの種類も増やしてきました。酵母は自家製のレーズン酵母で、小麦粉は北海道産がベース。長野で無農薬栽培している友人のふすま粉や、高崎市の「すみや農園」の全粒粉も使っています。そして何より、草津のおいしい水。これがパンの味を支えてくれています。観光で来られる方は、食事用のパンよりも、気軽につまめる小さめのパンや菓子パンを手に取られることが多いんです。一方で、地元の方々は毎日の食卓に並べられるような食事パンを好まれる傾向があります。そうした中で、バゲットを召し上がったお客さまから「美味しいね」と声をかけていただけるのは、本当にうれしいですね。
季節限定のパンも人気なんですよね。
外山:「いつから始まりますか?」と問い合わせをいただくくらい人気です。春はふきのとう、夏はとうもろこし、秋は栗、冬は花豆を炊いてあんぱんにするなど、その季節ならではの素材を取り入れるようにしています。
パン作りにおいて、草津ならではの大変さもあったり?
外山:標高約1200mの草津では、生地の発酵のリズムも独特です。冬は寒さで発酵がものすごくゆっくりになるし、夏は逆に速すぎてついていけないくらい(笑)。しかも夏は観光で一番忙しい時期と重なるので、体力的にしんどいこともあります。でも、それも含めてこの土地ならではのリズム。合わせて工夫するしかないんですよね。

ワンオペで一日中お店に立つ生活はとても大変ですよね。そんな毎日の中で、「続けよう」と思える原動力はどんなところにあるのでしょうか。
外山:一番忙しい時期は、朝3時や3時半に起きて生地の仕込みを始め、9時に店をオープン。そのまま夕方まで作業をして、「18時には帰りたいな」と思っても時間が過ぎてしまうことも多々あります。そんな日々を10年も続けてこられたのは、私自身、心底パンが好きだからなんでしょうね。「よく続いてるな」と自分でも思いますが、それはきっと好きだからできること。お客様に「美味しい」と言っていただける瞬間は本当に嬉しいですし、いい顔のパンが焼けたら「よし!」と自分でも満足できる。そういう瞬間がモチベーションにつながっています。
「ここみパン」の目指す姿を一言で言うと?
外山:食卓に欠かせない「日常のパン」、ですね。派手さは決してありませんが、毎日食べたくなるパン。罪悪感のないパン。子どもに安心して食べさせられるパン。そんなパンを目指しています。
草津に根を張り、パンと向き合いながら自分らしく歩むこれから

草津に暮らしてみて、地元の方々にはどんな印象を持たれていますか。
外山:すごく気にかけてくださる方が多いですね。顔を見に来て「元気?」と声をかけてくださったり、久しぶりに来店されると「顔を見に来たよ」と言ってくださったり。心地よい距離感で気を回してくださるのがありがたいです。
地元のお客様とのやりとりで、特に印象に残っている出来事はありますか。
外山:今年の春から娘が大学生になって、夏休みにはアルバイトでお店を手伝ってくれました。その姿を見たお客様が「この間まで小学生だったよね」「あそこで宿題してたのに!」と声をかけてくださったんです。お客様がそれだけ長い時間、変わらずに来続けてくださっているということなんですよね。家族の成長まで見守ってくれているようで、とてもありがたかったです。

ちなみに、お休みの日はどんなふうに過ごされていますか?
外山:基本は買い出しで終わってしまいますね。原町まで行ってスーパーをいくつも回ったり。店を始めてから旅行にはほとんど行かなくなりました。温泉地に住んでいるのにふと「温泉旅行したいな」と思うこともありますけど、結局「自宅のお風呂が一番落ち着く」と思ってしまう(笑)。温泉を引いているので、外に出なくても十分満足できるんです。
10年お店を続けてきて、今後の夢や目標は?
外山:そうですね……「完全週休2日制」にすることかな(笑)。やっぱり毎朝、仕込みから焼き上げまでの作業量が多いので、どうやったら少しでも楽に続けられるかを考えています。発酵や成形を前日にうまく割り振って、なるべく効率よく。大きな機械を入れるつもりはないけれど、味を変えずに少しでも自分の負担を減らしていきたいなと思っています。
“負担を減らしながら長く続ける”という考え方、素敵です。
外山:ありがとうございます。無理をして続けても嫌になってしまうかもしれない、だったら、楽をしてでも長く続けた方がいいかなと。観光地のパン店は長く続かないと言われてきたけれど、規模を大きくしなければ続けられるって、やってみて分かりました。だから「どうしたら一日でも長く、そして楽しく焼き続けられるか」を一番に考えています。

改めて、外山さんにとって草津とはどんな場所でしょうか。
外山:自然が日常に溶け込み、少し足をのばせば静寂に包まれる環境が整っています。けれど観光の方も通年で訪れるから、暮らしに適度な賑わいもあるんです。移住を決めたときも「これはご縁だな」と思い切って飛び込みましたが、今もその選択は間違っていなかったと思います。
空気が本当においしくて、季節ごとに匂いが変わるんですよ。冬には冬の匂い、春には春の匂いがして、その香りを感じながら家に帰る時間がすごく好きです。地元の方も「元気?」と声をかけてくださったり、「顔を見に来たよ」と立ち寄ってくださったり、いつでも温かく見守っていただいている。
パンを焼きながら、そんな草津の四季や人とのつながりの中で過ごせることが、私にとって一番の幸せですね。
外山さんのお話から感じたのは、パンづくりだけでなく、暮らしそのものに「自然体」が貫かれているということ。自分の手の届く範囲で日々のパンを焼き続け、季節の移ろいや土地の水と向き合いながら「なんとかなるさ」と笑う姿は、軽やかでありながら芯の強さを感じずにはいられませんでした。