倉持 壮さん
ファインダー越しに見つめた生き様と、世界を駆け抜けた日々

ご出身は埼玉県とのことですが、草津に移住される前はどのような環境で育ち、どんなお子さんだったのでしょうか。
倉持:埼玉県川口市の出身です。私が暮らしていたところはベッドタウンと呼ばれるような地域でしたが、当時はまだ自然が割と残っている場所でした。幼少期はザリガニ釣りやクワガタ取りをして、よく遊んでいましたね。どんな子供だったかと家族に聞くと、「アリをじっと見ている子だった」とよく言われます。アリンコの行列をただひたすらずっと見ているのが、周りにはすごく印象に残っているみたいです。実は、大人になった今でもそういうところがあるんですよ。
アリの行列をずっと見ているとは面白いですね。ただ観察するのがお好きだったということですか。
倉持:そうですね。虫の動きを見ているというよりは、おそらく「自分と重ねて見ている」のだと思います。生き様というか、彼らの動きを人間社会と重ね合わせているようなところがあって。「こいつ、今何を考えてこれを運んでいるんだろう」とか、アリや蜂の群れを見ながら、自分自身の生き方について考えたりしていますね。ちょっと上手く言語化できないのですが、時間を忘れてしまうくらい、見ていてすごく楽しいんです。
その幼少期の鋭い観察眼が、後のカメラマンというお仕事に繋がっていくのですね。どのようなきっかけでカメラマンになったのでしょうか。
倉持:子供の頃から写真が好きで、家族写真を撮るのはいつも私の役目でした。中学生の時に大好きなロックバンドであるザ・ブルーハーツとF1に出会い、大きな衝撃を受けたんです。それが原体験となり、10代の終わり頃から本格的にカメラマンになりたいと夢中になりました。一番のきっかけは、ザ・ブルーハーツの写真をどうしても撮りたかったこと。そして、F1の現場であるピットレーンに行きたいという思いも、大きな原動力でしたね。写真を「売りたい」というよりも、憧れの人たちに「会いたい」「現場の熱量を体感したい」という気持ちが強かったんです。本当は自分がミュージシャンになって会えれば一番良いのでしょうけれど、私にとってはなぜかそれが写真だったんですよね。結果的に、どちらの夢も叶えて現場にいられるようになりました。

世界トップの現場で、その瞬間を切り取ることにやりがいを感じていたのですね。
倉持:カメラマン的な「正解」としては、そう言っておいた方が良いのかもしれませんが、私にとってはやはり「その場を体感する」ということの方が重要だった気がします。一番の原動力は、やはりザ・ブルーハーツをはじめとする大好きなバンドが放つ、圧倒的な熱量の渦の中に身を置きたいという思いでした。彼らが全身全霊でメッセージをぶつけてくる生き様や、ステージと観客の思いが交差する現場に行って、生の迫力を体感したかったんです。もちろん、F1の現場でアイルトン・セナのような伝説的なドライバーや、企業が国のプライドをかけて戦うストーリーにも痺れましたが、私にとってカメラは、自分が一番好きな場所、どこにでも行けるための「武器」であり「ツール」でしたね。
カメラマンとしては、「やりきった」という思いはありますか。
倉持:ありますね。一番お会いしたかったロックバンドにも会えましたし、F1の痺れるような現場の空気も吸えましたから。もう十分にやりきったと心から思っています。
過労からの生還。熱湯に身を委ねて知った「自然体」の心地よさ
世界中を飛び回るカメラマンとして活躍される中で、体調を崩されたとお聞きしました。草津に移住した当時のことを教えていただけますか。
倉持:ずっとサーキットを巡る生活で、世界中のレースに毎週のように行っていました。当時はまだフィルムの時代で、現地で撮ったらすぐに日本に戻って現像しなければならず、本当にハードワークだったんです。若くて楽しかったからできましたが、今思えばよくあんなに動いていたなと思います。そうして旅をしすぎた結果、18年前に倒れてしまいました。もう「余命」を意識するほど死にそうになってしまって。体が動かないので、選択肢は他にありませんでした。ちょうどその頃、両親が以前から所有していた草津のマンションがあり、弟が見つけてきた今の農地とのご縁もあったんです。
ご自身の意思で「移住するぞ」と強く決断したというよりは、自然とそう導かれたような感覚だったのですね。
倉持:そうなんです。これまで根無し草のように旅ばかりして家に寄り付かなかった私が、「じゃあ、ちょっと草津に行かせてもらいます」とマンションに転がり込みました。「自分で何かをやりたい!」と行動を起こしたわけではなく、すべてが用意されていたような感覚です。移住するという気負いもなく、草津の環境のおかげでだんだん元気になってきて、体がうずうずしてきた時に、「そういえば畑が手に入ったんだって?」と、そこで農作業をさせてもらうようになりました。ただただ「野菜ありがとう、温泉ありがとう、地球ありがとう」という感謝の気持ちしかありませんでしたね。

草津のお湯と野菜が回復のきっかけになったのですね。特に「煮川の湯」でエネルギーを感じたというお話を伺いましたが、どのような体験だったのでしょうか。
倉持:最初はマンションのお風呂に入っていましたが、割と早い段階で煮川の湯にも通い始めました。最初は熱くて全然入れなかったんですが、ある時ふと気づいたんです。「熱いと構えて挑んでいるから熱いんだな」って。お湯が素晴らしいことはわかっていたので、気持ちを切り替えて「気持ちいい!」と思うようにしたら、入れるようになりました。力んで挑戦するのではなく、「委ねる」ようにしたんです。「委ねると煮川も入れる」。これは本当に委ねるべきですね。煮川の湯に入った時、自然の偉大さを体感しました。エネルギーが身体中の皮膚から染み込んで、力んだ体を優しくほぐしてくれたんです。
熱さに挑戦するのではなく、委ねる。とても深いお話です。カメラを手に取ったことも、目の前の畑を始めたことも、すべて自然体に身を任せているように感じます。
倉持:今でこそこうやって言語化できていますが、当時はやはり何事に対しても執着が強かったのだと思います。そのせいで限界を超えて病気になったのでしょうね。若い頃は、目の前にあるものに対して「自分がどうしたいか」と自我の塊で挑戦していました。強く願うとその通りになると思い込んでいて、周りのことも関係なく自分勝手にやっていた気がします。でも、おじさんになってようやく、執着しない方がうまくいくことや、自然体でいる方が楽だということがわかってきました。今は肩の力を抜いて、「それやっとけってことか」と、全然関係ないものが目の前に現れても受け入れられるようになりました。遠回りに見えて、実はそれが近道だったりするんですよね。過去の自分にも、そう言ってやりたいです。
美味しいどら焼きが繋ぐ縁。18年の沈黙を経て再び人の中へ

そんな倉持さんが、現在「草津温泉どらやき」を営まれている経緯もとても気になります。
倉持:これが全然面白い話じゃないんですよ(笑)。実は人に言われて始めたんです。ある方が完成させたどら焼きを「これ食べてみて」と言われて食べたら、「お、すっげえ美味しいじゃん」と感動してしまって。私は元々お餅系の和菓子が好きで、どら焼きはあまり眼中にない分野だったのですが、他のお店のものを食べ比べても、その方のどら焼きが特別美味しいことがわかりました。そうしたらすぐに「草津でやってみる?」と言われまして。「あー、じゃあやってみよっか」と答えたら、なんと45日後くらいにはもうお店が開店していました。

45日後ですか!今の場所も、トントン拍子で決まったのでしょうか。
倉持:ええ、そうなんです。それもまた用意されていたかのような巡り合わせでした。私はどら焼き屋の向かいで一棟貸しの宿もやっているのですが、ある日その宿の掃除をしていたら、18年前に草津に来てすぐの頃から仲良くしてもらっていた方と10数年ぶりに偶然再会したんです。その方は今では大阪屋さんの社長になっていて、「ここで宿をやるんですよ」とはじまった会話の中で、社長から「ちょうど向かいの店舗が空いてるんだ」と伺いました。「どら焼き屋をやってみてもいいですか?」と尋ねると「いいよ!」と言ってもらえたので、そのまま始まりました。だから、自分で物件を探したわけでも、思い悩んだわけでもないんです。「試しにやってみるか」くらいの感覚でしたね。


まさに不思議なご縁ですね。18年間、畑で自然と向き合ってきた倉持さんが、再び人と関わるお店を始めたことに何か意味を感じますか。
倉持:草津に来てから17、8年ほどはずっと畑にいて、ほぼ人に会わない生活をしていました。でもお店をやってみて、「ああ、今は人と関わることが必要な時期で、こういうことをしなさいってことなんだな」と腑に落ちました。どら焼きは丸い輪の形をしていますが、まさにそれが人との「縁」を結んでくれているような気がします。私としては、どら焼きを人に渡すことで、相手がほんの1ミリでもハッピーになったらいいなという「挑戦」のつもりでやっています。中には怪しんで離れていく人もいますが(笑)、迷っている人がいたら「このどら焼き食べると人生変わるよ」なんて言いながらコミュニケーションをとっています。遠方からリピートしてくださる方やお土産を持ってきてくださる方もいて、人と関わるのがすごく楽しいですね。
お店では、ご自身の畑で育てたハーブティーも提供されているそうですね。
倉持:はい、トゥルシー茶とバラ茶を提供しています。実はこのハーブとの出会いも運命的でして。草津に来た1年目によく通っていたマッサージ屋さんで、常連だった私にハーブの種を譲ってくれた方がいたんです。それがインドのトゥルシーというハーブでした。インドの偉いお坊さんが「これが世界を浄化するから広めよう」と言っていた神聖な種だそうで、生命力が強く万能薬とも呼ばれています。その種をいただいてから、もう18回も種を取り続けて大切に育てています。だから、「うちの商品を買ってほしい」というよりは、この植物の存在自体を知ってほしいという思いでお客様にお出ししています。たまにこのハーブティーを心から喜んでくれる人がいて、「もしかして、このためにどら焼き屋をやっているのかな」と思うこともありますね。

ミツバチが舞い、子供たちが笑う。命が循環する村を目指して
自然の流れに委ねる生き方をされている倉持さんですが、現在お住まいの前口地区で叶えたいビジョンがあるとお聞きしました。
倉持:草津の中心地は素晴らしい商業エリアですが、私の住む前口地区は温泉街とは少し雰囲気が違い、自然が豊かに残っています。ここで叶えたいのは、「循環」をテーマにした地域づくりです。人が自然の一部として、生まれたところから死ぬところまで、理にかなった暮らし方ができる持続可能な場所にしたいんです。前口地区に学校や住宅、食堂があって、そこで暮らす人たちが自然に感謝しながらゆとりを持って生きている。そんな人たちの持つ穏やかな雰囲気があれば、訪れる人にも「本当の意味でのリトリート」を提供できると思うんです。移住や定住にも繋がるし、体にいいものを育てることが草津の新しいブランディングにもなるのではないかと考えています。
毎年冬にはタイの山岳民族のところへ行かれているそうですが、そこでの経験も村づくりに影響しているのでしょうか。
倉持:はい、もう12年になりますが、冬の間はタイのジャングルで山岳民族と一緒に暮らしています。彼らの生活を見ていると、自然と人間の本来のあり方について考えさせられます。例えば、田んぼをやるとなったらどこからともなく何十人も人が集まってきて、あっという間に終わらせてしまう。子供たちも、大人に管理されることなく滝壺に飛び込んで過激に遊んでいます。日本だったら絶対に止められるようなことですが、それが彼らにとっては生きる上で重要なスキルになっているんです。今の日本は少し生きづらさを感じますから、彼らの暮らしの知恵を日本の生活に活かせないかと模索しています。

今の社会システムや教育に対しても、違和感を持たれているのですね。
倉持:そうですね、完全に疑っています。システム自体を1から、いや0から考え直した方がいいんじゃないかと思っています。「その教育はどこに向かおうとしているのか」「そもそも1が間違っているのではないか」と。偏差値などの価値観に縛られるよりも、子供はもっと自然の中で思い切り遊んだ方がいい。みんな違う人間なのだから、まずはその違いを受け入れるところから始まるといいと思います。私たちが今さら昔の暮らしに完全に戻ることは難しいかもしれませんが、次の世代、その次の世代のために、教育という土台から変えていけたらいいなと思っています。
最後に、5年後、10年後の草津、そして倉持さんご自身の暮らしがどのようになっていてほしいか、イメージを教えてください。
倉持:自分の畑の周りに農薬が撒かれなくなり、ミツバチがもっと増えているといいですね。ミツバチが花粉を運んでくれるから、野菜が実りますので。見たこと無いけれど、縄文時代の村みたいな風景を想像しています。「この草の香りいいね」「これトゥルシーって言うんだよ、種持っていきなよ!」なんていう会話が自然に生まれるような場所。そして、世界中の友達に「遊びにおいでよ!」と胸を張って言えるような、居心地のいい場所になっていたら最高ですね。一過性の盛り上がりではなく、超緩やかな右肩上がりで、当たり前のように子供たちが「クワガタ取れた!」と言って走り回り、盆踊りができるような「普通」の暮らしがずっと続いていってほしいと願っています。

編集後記
極限のスピードで世界を駆け抜けた若き日が嘘のように、現在の倉持さんは穏やかで、まるで草津の深い森のように静かなエネルギーに満ちていた。死の淵を彷徨い、熱湯に身を委ねることで手に入れた「自然体」という生き方。無理に抗わず、用意された道にしなやかに乗っていくその姿勢は、日々の忙しさに追われ、つい何かに執着してしまう私たちの心に、優しい問いを投げかけてくれる。倉持さんが作るどら焼きとハーブティーには、大地の恵みだけでなく、そうした人生の深みがたっぷりと詰まっているのだろう。草津を訪れた際は、ぜひその温かな縁に触れてみてほしい。