山口 猛さん

1949年、新潟県新潟市生まれ。1976~2013年まで「国立療養所 栗生楽泉園」にて勤務。義肢装具士としてハンセン病患者の支援に携わる。現在は「百年石別邸」で百年石づくり体験の講師を勤めている。好きなバンドは1960年代後半に活躍したイギリスのブルース・ロックバンド「Free(フリー)」。

草津ならではの泉質を活かした唯一無二の体験、「百年石」とは?

「百年石別邸」の山口猛さん
「百年石別邸」の山口猛さん

まず「百年石」とはどういったものなのか、仕組みを含めて教えてください。

山口:「百年石」とは、草津温泉の中和事業で使われている石灰石を使った草津ならではの製作体験プログラムです。アルカリ性の石灰石の表面にエナメルペンキで絵や文字を描き、強酸性の湯に浸すと絵付けしていない部分が酸化し中和反応が発生。少しずつ石が溶けていきます。一方、ペンキで覆った部分は温泉の成分から守られるので残り、結果として描いた模様や文字が“浮き彫り”のように立体的に浮かび上がるアートになります。

ただ絵を描くだけではなく、理科の実験のような仕掛けなんですね。

山口:そうなんです。仕組みを理解すると「なるほど」と思えるんですが、実際にやってみると予想以上に奥深い。色を塗る角度や面の取り方で、浮き上がる模様の印象がまったく変わります。だから単なる塗り絵ではなく、どこを残してどこを溶かすか、多面的に考える思考力も必要なのです。

なるほど。大人でも十分に楽しめそうですね。

山口:ええ。よく「体験」と聞くと子ども向けと思われがちですが、百年石は大人がじっくり取り組むのにも向いていると思います。ただひとつ注意していただきたいのは、使うペンキに有機溶剤が含まれていますので、小さなお子さまは必ず大人の管理下で体験していただくことを徹底しています。

どこに凹凸ができるかを考えながら絵付けをしていくのが百年石の醍醐味
どこに凹凸ができるかを考えながら絵付けをしていくのが百年石の醍醐味

そして、その体験がここ「百年石別邸」でできるのですね。絵付けについて何かポイントはあるのでしょうか。

山口:私がよくお伝えするのは、「文字を字だと思わないで、形として塗ってください」ということ。たとえば「草津」と書く場合でも、書き順にとらわれて筆のように書こうとするとうまくいかないんです。そうではなく、文字も形の輪郭として捉えて、そこに色をのせていく。すると石肌の凹凸と相まって、表情のある仕上がりになるんです。

山口さんはここでどのような活動をされているのでしょうか。

山口:主に体験者に作り方を教えたり、お預かりした作品を温泉に浸ける、乾燥させる、梱包するといった作業を行っています。以前は個人的に作品作りをしていたのですが、最近はなかなか手が回っていないのが現状ですね。

漫画図書館の「漫画堂」やカフェ「月の貌」など話題のスポットが集まるエリア「裏草津」に佇む
漫画図書館の「漫画堂」やカフェ「月の貌」など話題のスポットが集まるエリア「裏草津」に佇む

華やかなバンドマンから医療職へ。亡き祖父の言葉が導いた草津への道

手先の器用さには自信があったという山口さん。独学で立体的な作品をいくつも生み出してきた
手先の器用さには自信があったという山口さん。独学で立体的な作品をいくつも生み出してきた

山口さんは新潟県出身とお伺いしました。どんな子ども時代でしたか?

山口:はい。出身は新潟市です。実は、小学校低学年の頃、先生に当てられると顔が真っ赤になって涙が出てきちゃうようなシャイな性格の子どもでした。いわゆる“赤面恐怖症”だったんですね。そこで祖母が心配して、「この子は訓練したほうがいい」と当時新潟にあった児童劇団に入れてくれたんです。小学4年から中学3年まで、主にNHKのラジオドラマに出演しました。

ラジオドラマですか! それは貴重な経験ですよね。

山口:そうですね。入団当初は声が震えてうまく発声できなかったのですが、毎週のように収録を繰り返すうちに慣れてきて以前ほど人前で話すことに苦手意識がなくなりました。小学6年のときには児童会長も務められたくらいですから、祖母の判断は正しかったんだと思います。

その後はどのような進路を?

山口:高校では3年間ボート部に所属していたのですが、その頃はベトナム戦争や学生運動のまっ盛りだったので、組織と個人のあり方について懐疑的になっていました。ふと「将来何をやるか」と考えた時に「南米大陸へ移住したい。山賊になりたい」と思うようになったんです。単に南米に興味があって行きたいなという、そんな軽い思いつきだったんですけどね。

キング・クリムゾンのファーストアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』のジャケットをイメージした、ロック好きの山口さんならではの作品。ここまでの作品は完成するまでに数年かかることも
キング・クリムゾンのファーストアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』のジャケットをイメージした、ロック好きの山口さんならではの作品。ここまでの作品は完成するまでに数年かかることも

えっ、山賊ですか…! それは随分と大胆な発想です。

山口:そうなんです。でも言葉の壁については真面目に考えていまして、行くならしっかりスペイン語を勉強しようと思ったんですね。それで、東京外国語大学(スペイン語学科)を受けたんですが、まぁ当然のように落ちてしまいまして(笑)。結局、東京の外国語専門学校へ行ったのですが、初級が終わったタイミングで以前からやっていたバンド活動の方に力をいれるようになってしまい、ライブハウスやクラブで専属で出演するバンド“ハコバン”が職業になってしまったんです。

その「ハコバン」というのは?

山口:クラブで毎晩生演奏をするんです。六本木、青山、横浜と場所を転々としながら働きました。ジャズから歌謡曲まで、何でも弾きましたよ。ところが、数年もするとフィリピンのバンドがたくさん入ってきたんです。とても演奏が洒落ていて、しかも賃金が安い。それで日本人のハコバンの仕事は一気になくなっていきました。さらにカラオケが普及して、生演奏じゃなくてもよくなった。そうすると私たちの居場所は急速に減っていったんです。

それは大きな転機ですね。

山口:はい。続けていくこともできたでしょうけど、私は「好きな音楽を仕事にすると、好きなことから遠ざかる」と感じていました。やりたい曲ができない、好きなことを突き詰められない。それで26歳のときに、音楽の世界から離れる決断をしました。

それから草津へやってくるきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

山口:僕は両親が早く亡くなり、祖父母に育てられたんです。祖父は開業医だったのですが、「孫たちが一人前になったら山奥のハンセン病療養所でボランティアをして、そこで死ぬまで暮らす」とよく口にしていました。その言葉がずっと私の心に残っていたんですよね。それで、新潟から一番近いハンセン病の療養所を調べてみると、草津にある「国立療養所 栗生楽泉園」だったのです。妻の出身が草津町だったこともあり、ちょうど職員の募集もしていたタイミングだったので、祖父の夢に近づく意味でも職員として勤めることになりました。

お客さんが作った百年石は2日間温泉水に浸し、乾燥などを経て完成。旅の思い出に草津ならではのイラストを書く人も多い
お客さんが作った百年石は2日間温泉水に浸し、乾燥などを経て完成。旅の思い出に草津ならではのイラストを書く人も多い

そこでどのようなお仕事を?

山口:当時は医療の資格なんて何も持ってないので助手からのスタートです。歯科助手をしたり、歯科技工の手伝いをしたり、手先を使う仕事をひとつずつ覚えていきました。

音楽活動から医療の現場へ。180度違うようにも思えますが、ご自身ではどう感じていましたか。

山口:人から見ればまったく違う職業に就いたように見えると思います。でも、自分の中では全然そうは思わなかったですね。バンドマンとして音楽をやっていたことも、医療機関で働くことも、ただの選択肢の違い。分かれ道ではなく、自然に溶け込めた感じでした。祖父母の影響もあって、医療や人を支える場に違和感はまったくありませんでした。

なるほど。そこから専門性を深められていったのでしょうか。

山口:歯科技工や装具づくりの仕事に携わるようになって、1989年に義肢装具士の国家資格を取りました。レントゲン技師や検査技師と同じような「医療技術職」のひとつで、患者さん一人ひとりに合わせて義足や装具を作る仕事です。既製品ではなく、全てオーダーメイド。物を作ることが好きだったので、性に合っていたと思います。

施設内には同じ素材から生まれたとは思えないほど手の込んだ山口さんの作品が数多く並ぶ
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草津からミャンマーへ。軍事政権下で続いたハンセン病への支援活動に尽力した日々

今でもよく聞くのは昔のロック、と語る山口さん
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「栗生楽泉園」で義肢装具士として働く最中、ミャンマーのプロジェクトに関わることになったきっかけというのは?

山口:実は叔父が第二次世界大戦中のビルマ戦線で戦死しているんです。おそらく1944年のインパール作戦の頃だったと思うのですが、骨も帰ってこず、「戦死」と一報があっただけでした。だからビルマ(今のミャンマー)という国に対して、どこか他人事には思えなかったんです。いつか一度は行ってみたいとずっと心の中にありました。そんな折、日本とミャンマーの間で「ミャンマー国ハンセン病プロジェクト」、いわゆる政府開発援助(ODA)が立ち上がったんです。国立の療養所や病院でハンセン病の義肢装具士を複数抱えているところは少なくて、「行ってくれる人はいませんか」と声がかかったとき、私は真っ先に「行きたい」と手を挙げて参加し、2002年から2006年の間に、トータルで18カ月の間ミャンマーに滞在しました。

実際に現地ではどのような活動を?

山口:最初の派遣で行ったとき、言わば「大成功」してしまったんです。本来の目的は、必要な機材や原材料を調達して、最新の技術を教えることでした。先発隊が不足しているものをリストアップしてくれていたので、それを揃えて行ったんですが……現地に着いてみたら電気が通っていなかったんですよ。一応配線はあるけれど、1週間に1時間か2時間しか電気が来ない、そんな環境でした。なので、どんなに良い機材を揃えても役に立たない。発電機を入れようにも、ODAの取り決めではガソリンなどの消耗品は買えないんです。そこで電気に頼らなくても始められる「ナイフとやすりでできる仕事を教えよう」と方針を切り替えました。もちろんそれで全ての工程を完結できるわけではありませんが、本当に必要な知識や基礎的な技術から始めることはできる。そういう方法で教えたところ、劇的な効果があったのです。

体験は予約不要で1人800円。完成した作品はおおよそ1週間ほどで自宅に着払いで送ってくれる
体験は予約不要で1人800円。完成した作品はおおよそ1週間ほどで自宅に着払いで送ってくれる

なるほど。現地の実情に合わせて活動を進められたんですね。当時のミャンマーは情勢的にも大変だったのではないしょうか?

山口:そうですね。最初の渡航では銃を持った兵隊がずっと付き添ってきましたし、次の渡航では「記者です」といってずっとついてきた人が実は公安部の高官で、最終的にはみんなが一斉に敬礼する、なんてこともありました。まるで映画のような世界でしたね(笑)。当時は軍事政権下で、ミャンマーは国際的に孤立していました。そんな状況下でも、ハンセン病に関わる活動は続いていて、そこに日本が協力することには大きな意味があったと思います。ハンセン病の患者さんや若いスタッフの熱意は本物でしたし、人と人として向き合えば学び合えることはたくさんある。それを強く実感しました。

新潟から草津、そしてミャンマーと、さまざまな場所を歩んでこられた山口さんの目に、草津の温泉や観光はどのように映っているのでしょうか。

山口: 昔は「温泉にあぐらをかいた商売」とよく言われるように、本当に温泉そのものの力に頼り切っていた時代があったように思います。お客様は自然に集まり、お土産を通常より高い値段で並べても売れてしまう。そんな状況が長く続いていたんです。ところが今は違う。誰にでも情報が行き届くようになり、お客様はきちんと比較して選ぶようになった。その結果、「どうしたら来てもらえるか」「どうしたら満足していただけるか」を街全体が真剣に考えるようになりましたよね。私はこの変化をとても良いことだと感じています。草津の商売はより健全に、誇りを持って提供できるものへと変わってきている。だからこそ今の草津は、昔よりもずっと魅力的になっていると思いますね。かくいう私は、実は肌が弱くて温泉には入れませんし、スキーやゴルフといったスポーツもやらないんですけどね(笑)。

草津のみならず、ミャンマーのハンセン病患者への支援も精力的に行っていた山口さん
草津のみならず、ミャンマーのハンセン病患者への支援も精力的に行っていた山口さん

世界でここでしかできない体験を“芸術”として昇華させるためにできること

「技術と芸術は別物。いつか芸術として評価される日がくれば」
「技術と芸術は別物。いつか芸術として評価される日がくれば」

山口さんが定年後に「百年石」に関わるようになったきっかけを教えてください。

山口:62歳で定年を迎えたとき、妻から「『環境体験アミューズメント※』で職員を募集しているけれどやってみたら?」と勧められたんです。そこではすでに「百年石」を使った展示や体験が行われていました。前職で装具づくりをしていた経験に加えて、若い頃からプラモデル作りが好きでもの作りには自信がありましたから、「自分にもできるかもしれない」と思ったのがきっかけで働くことになったんです。そこでは2013年~2024年まで勤務していましたね。2025年からこの「百年石別邸」で活動しています。

最初から作品づくりを?

山口:当時から百年石の展示はありましたが、体験用の比較的シンプルな作品が中心で、複雑な造形や芸術的な表現の作品がなかったんです。そこで「それなら自分が作ってみよう」と挑戦してみました。温泉水につけてペンキで書いてを何度も繰り返すので、ものによっては完成まで数年かかるんですよ。今でも「環境体験アミューズメント」には私が手掛けた作品をたくさん飾っていただいています。

中和工場入口に展示されている品木ダムの作品
中和工場入口に展示されている品木ダムの作品

実際に体験に来た方はどのような楽しみ方をされているのしょうか。

山口:今の若い方は絵を描くことに慣れている印象がありますね。タブレットやスマホでイラストを描いたりできるというのもあるからでしょう。そういう背景もあって、キャラクターの模写をする人が圧倒的に多いです。アニメが好きな人はそのキャラクターを繰り返し描く。もちろん、それ自体は楽しい体験なんですが、私自身は「もっとオリジナルの作品に挑戦してほしい」という気持ちもあります。

体験としての魅力と、創作としての伸びしろ、両方あるわけですね。

山口:そうですね。ただ、現状にはひとつ課題があるように感じています。それは“お手本となる完成品がない”こと。例えば、陶芸であれば土産店や道の駅などで売り物の完成品が並んでいる。そして「自分もああいうものを作ってみたい」と思うところから始まりますよね。でも百年石の場合は販売はなく、完成品が市場に出回っていません。だから体験者は「どこを目指せばいいのか」が明確ではないのです。

絵付けは5色の専用ペンキを使用。描きたい絵があればトレースすることもできる
絵付けは5色の専用ペンキを使用。描きたい絵があればトレースすることもできる

なるほど。確かに完成品があればモチベーションにつながりますね。

山口:本来なら、圧倒的に完成度の高い作品が提示され、それに「挑戦してみたい」と思わせることが大切です。到達できるかどうかは別として、ハードルの高い見本があることで、体験者の意識や取り組み方は大きく変わります。いまは模写や塗り絵の延長に留まっているケースが多いですが、本来はもっと自由で個性的な作品が生まれる可能性がある。私はそこに期待しています。

山口さんが思う、百年石の価値はどのようなものでしょうか。

山口:まず第一に世界中見ても「草津でしかできない」ということです。温泉成分がこの造形を作り出す環境はこの地特有のものですから。それから、石は何十年、何百年も残ります。紙に描いた絵はやがて色あせますが、百年石は時間とともに風合いを増していく。観光の記念品としてだけでなく、自分の“痕跡”を未来に残す感覚を体感できるのではないでしょうか。

その中で、芸術として昇華させていきたいと。

山口:そうですね。私はまだ“芸術”の段階には至っていないと感じています。今は技術を模索している段階。ただ芸術というのは自分で名乗るものではなく、周囲の評価や時間の経過がいつの間にかそう位置づけるものだと思うんです。百年石も、いまは体験と技術の積み重ねですが、将来的には“芸術”として認められる瞬間が来るかもしれませんし、そうなって欲しいですね。

山口さんの歩みは、常に「人と向き合うこと」に根ざしてきました。その延長線上で出会った百年石は、観光体験にとどまらず、未来に残る文化へと育つ可能性を秘めています。「いつか芸術として昇華するかもしれない」という言葉は、草津に新しい魅力が芽生えつつあることを予感させました。
※草津の酸性河川の中和事業を紹介している見学施設。

百年石別邸 / 山口 猛
百年石別邸 / 山口 猛