今井 敏夫さん

群馬県太田市(旧・藪塚町)出身。18歳で『ジャパンスネークセンター』に就職後、全国各地でヘビの移動展示イベントに携わる。1984年に日本で初めてエリマキトカゲを上陸させ、草津熱帯圏で初の展示を成功させる。現在は、草津熱帯圏の取締役社長兼園長。

日本一標高の高い動物園「草津熱帯圏」はなぜ生まれた?誕生秘話

今井 敏夫さん
園長の今井 敏夫さん

本日は宜しくお願いします!今井さんのご出身はどちらになりますか?

今井:私は群馬県の藪塚町(現・太田市)で育ちました。兄が一人いるのですが、母子家庭で家計が厳しかったので、小さい頃から何かと手伝いをしていましたよ。ウサギを育てて売ったり、年配の方に頼まれてマムシやシマヘビを捕まえて売ったりしました。昔からヘビは薬になると考えられていたので、年配の方々から重宝されていたんです。高校卒業後、大学受験に失敗しまして、東京に出て新聞配達のアルバイトをしながら予備校に通いはじめました。

東京での生活はいかがでしたか。

今井:新聞配達は早朝から始めるハードな仕事でしたが、勉強と生活を両立させようと頑張っていました。ですが、慣れない都会生活と、夏の暑さや雨の中での新聞配達が重なって、だんだんと体力が消耗していきましたね。結局、秋頃には大学受験をあきらめて実家に戻ることになりました。そんな折、1965年のある日の新聞記事で群馬県太田市の藪塚温泉に、ヘビ類を専門に展示する施設「ジャパンスネークセンター」がオープンすると知りました。知り合いがその近くに住んでいたので、すぐに連絡を取って現地を訪れてみました。

草津熱帯圏 / 今井敏夫
振り返ってみると幼少期からヘビとの縁があったと語る

「ジャパンスネークセンター」との出会いが、今井さんの進路にどのような影響を与えたのでしょうか?

今井:大学を出なくても、競争相手がいなければ一番になれる、その道のエキスパートになれると考えました。藪塚は、かまどや家の土台に使う藪塚石の採掘跡が洞窟になっていて、昔からキノコやマッシュルームの栽培が行われていましたが、ヘビや毒を扱う研究者たちの集まる研究施設になったのです。この「ジャパンスネークセンター」は、毒ヘビに関する研究の拠点、いわば「毒ヘビのメッカ」としての役割を担っていました。

今井さんのヘビに対する愛情はどこから生まれたのでしょうか?

今井:愛情というよりも、ヘビという生き物を扱う中で感じたのは、これほど人間に懐かない動物も珍しいということです。人間がどれだけ愛情を注いでも、ヘビには全く伝わらない(笑)。好き勝手に生きていて、嫌なら噛みつく。それがヘビなんです。結局のところ、自分が勝手に可愛いとか好きだと思っているだけなんですよ。

18歳でスネークセンターに携わるようになった今井さんですが、具体的にどのような仕事をしていたのでしょうか?

今井:主に飼育の仕事ですね。全国各地から集めたヘビの世話が主な業務でした。餌を与え、健康状態を管理し、必要に応じて販売したり、研究所に提供したりする仕事です。昭和40年頃のスネークセンターは、毒ヘビ研究の中心地となり、東京大学助教授の沢井先生を中心にヤマカガシの血清の研究と製造の指導などもしていました。

ヘビの飼育業務に携わった今井さん
18歳からヘビの飼育業務に携わった今井さん。草津熱帯圏では、そのノウハウを活かした自然体の展示が楽しめる

忙しい日々の中で、今井さんのお仕事にも変化があったのでしょうか?

今井: 昭和41年頃、東京にある西武デパートが「世界のヘビ展」というイベントを開催しまして、多くの人々がヘビを見るために行列をなすほどの人気でした。スネークセンターのつながりで、全国のさまざまな場所で展示会を開催したのですが、私も若かったもので人間付き合いに疲れてしまい、21歳の春には仕事を辞めることにしました。その後、東京の喫茶店で働きながら俳優座の養成所を目指したりもしましたが、結局は別の道へ進むことになったんです。

再びヘビに関わるようになったきっかけは何だったのでしょうか?

今井:ある日、「ジャパンスネークセンター」で一緒に働いていた同僚から、「研究所長が今井さんに会いたいと言っているからおいで」と誘いを受けて会いに行くと、「やはり今井くんはヘビの世界で生きるべきだよ」と説得。その熱意に負けて再びセンターで働くことになりました。やがて、日本各地を巡りながらヘビを展示する移動型イベントにも参加するようになったんです。静岡、三重、四国、九州など、全国各地を巡り、自然や動物の魅力を伝えることを目的に、生きたヘビを展示したバスを使ってイベントを開催。約3年間、毎年20~30カ所ほどを回りました。面白かったのですが、3年目のイベント終了とともにもう辞めようと退職を決めました。

草津熱帯圏 / 今井敏夫
ヘビの展示イベントで毎年、全国各地を飛び回っていたそう

その後、現在の「草津熱帯圏」となる新しい施設づくりに関わられたとのことですが、どのような経緯だったのでしょうか?

今井:当時の草津町では、1970年9月に「志賀草津高原ルート」が完全舗装される予定でした。志賀高原や長野方面からの交通の便が良くなる一方で、観光客が草津を素通りして減少するのではないかという懸念も広がっていたんです。そこで、地域活性化のために新しい施設を作ろうという話が上がり、私もその構想に関わることになったんです。

ついに草津熱帯圏が設立されることになったんですね。

草津熱帯圏
1970年10月10日、草津熱帯圏は開業した

今井:ええ。計画が決まってから突貫工事で10月に施設をオープンし、当初は多くのお客様に恵まれましたが、11月からの冬場の閉鎖に伴ってすぐに客足が激減しました。当時の草津にはシーズンオフでたくさんの老人クラブの旅行団体がホテルに滞在していたのですが、私たちの施設にはほとんどお客さまが来ませんでした。農家団体やホテルの団体客には「ヘビがいる施設」というイメージが強く、ヘビは農家にとって珍しいものではありませんでしたので、集客に本当に苦労しました。割引料金を設定したり、ホテルの客室ひとつひとつに割引券を配って説明したり、その他にも広島や富山、岡山など全国各地の百貨店で展示会を開催したりと奔走しました。

順調なスタートから一転の集客と、大変なご苦労だったのですね。

今井:来園者の数が伸び悩み、一時は人件費を削減するなど、コスト削減に努めなければなりませんでした。当時、スタッフは40名近くいたのですが、その後、20名位の人数でなんとか運営を続けていましたね。

草津に住み続けて55年。「守るべきもの」「変わりゆくもの」草津の変容

草津熱帯圏
草津熱帯圏を象徴するドームは当時の面影を色濃く残している

当時の草津町はどんなまちだったのでしょうか?

今井:草津と言えば「草津温泉」と言われるように、地元の方々は温泉に対する誇りが強く、「温泉さえ良ければ問題ない」という考え方が根強くありました。もちろん草津の温泉は町の誇りである一方で、同時に言い訳の材料でもあったんです。温泉以外の建物や食べ物や接客などのサービスには時折、不満の声が聞こえてくることがありました。

そうした草津の文化の中で、施設を運営することは容易ではなかったと思います。

今井:地元の方々の高い期待に応えつつ、一方で、自分たちの施設の独自性を出すことはとても難しいことでした。草津の魅力を生かしつつ、新しいものを取り入れていく。宿もこれまでは1泊2食付きの2名以上の予約が当たり前でしたが、今ではおひとりさまや素泊まりも当たり前になっています。そんな時代の変化に合わせて、草津熱帯圏もイベントや展示方法の変更など、さまざまな試行錯誤を重ねながら今日までやってきました。

熱帯圏に生息する大小さまざまな動植物たち
熱帯圏に生息する大小さまざまな動植物たちがのびのびと暮らしている

今井さんにとって草津とはどのような場所なのでしょうか?

今井:もちろん温泉も魅力のひとつではありますが、それ以上に私がこの地を愛しているのは、やはりここでの生活そのものですね。若い頃に草津に来て、地元の女性と結婚して子どもが生まれ、今では家族で草津熱帯圏を運営しています。経営は大変な時期もありましたが、家族とともにこの地で生きてきたという思いが強いです。草津に移り住んでもう55年目になりました。

昭和の大ブームとなった「エリマキトカゲ」日本初上陸の立役者が語る、展示成功までの秘話

エリマキトカゲが日本中で話題になったのを、裏で支えたのが今井さんだとか……

エリマキトカゲ
日本初上陸となったエリマキトカゲのはく製は、今も館内に大切に展示されている

今井:1984年に三菱自動車「ミラージュ」のCMにエリマキトカゲが使われました。さらに『わくわく動物ランド』(TBS系列)というテレビ番組がありまして、その人気投票でエリマキトカゲが1位になったんですよね。そこで日本中で一気にエリマキトカゲのブームが巻き起こりました。同年に当時の伊勢丹デパートからエリマキトカゲを使った販促活動をしたいと私に相談があったため、かつての縁を元にパプアニューギニアの南西部にあるベンズバックに、エリマキトカゲを受け取りに向かいました。ところが、到着してみると用意されていたエリマキトカゲが不幸にも亡くなってしまっていたんです。展示会は帰国日の翌日10時からを予定していたため、頭が真っ白になりました。そこで急遽パプアニューギニア政府に許可を取り、自分たちでエリマキトカゲを捕獲して日本に持ち帰る作戦を選択。タイムリミットは帰国便が出発する3日間。命運をかけたエリマキトカゲ探しが始まりました。

それは非常にハラハラする展開ですね。エリマキトカゲ探しは順調に進んだのでしょうか?

今井:最初は思うようにいきませんでした。村人たちがエリマキトカゲが生息する土地に私たちを案内してくれて探したのですが、なかなかエリマキトカゲは見つかりません。そこで、現地の人たちに協力を仰ぎ、写真を見せながら聞き込みを始めました。しかし、誰も「見たことがない」と首を振るばかり。あきらめかけたその時、最後の方に話しかけた子どもが、「知っている!」と教えてくれ、一筋の光が差し込みました。翌日、現地の子どもたちと協力し、10人態勢で10m間隔で横一列に並んで一歩ずつ歩いて足元にいるであろうエリマキトカゲを探すものの、初日はまったく成果なし。翌々日も同じように捜索していると、1人の子どもが30mぐらい先の木をこう指差して何か大きな声を上げたんです。指の先には探し求めていたエリマキトカゲが木の上にチョコンと座っていて、「いた――――!」と思いましたね(笑)。結局3日間で合計3匹を捕獲することができました。彼らの協力のおかげで、なんとかエリマキトカゲを捕まえることができました。

ついにエリマキトカゲを捕獲できたんですね!

今井:そうですね。パプアニューギニアからの貨物輸送や、トランジットのブリズベン空港での長時間の待機は大変でしたが、なんとか無事に日本へ持ち帰ることができた時は、心からホッとしました。伊勢丹での展示会では多くの人が見に来てくれました。捕まえた3匹のうち、1匹は草津熱帯圏に持ち帰って展示をすることになりました。

エリマキトカゲ
パプアニューギニア現地でのエリマキトカゲ捕獲成功の写真も多数展示されている

草津熱帯圏に持ち帰ったエリマキトカゲは、大きな話題になったそうですね。

今井:そうなんです。草津には午後1時半頃に到着したのですが、その日の夕方のニュースで大きく取り上げられました。翌朝には開館前に20人もの人が列をなすなど、その人気は想像をはるかに超えていました。まるで年末の上野のアメ横商店街のように、エリマキトカゲを一目見ようとするお客様であふれかえっていました。特に夏休み期間中は過去最高の賑わいを見せ、月間来場者数も記録を更新し、今なおその記録は破られていません。

倒産の危機や震災・コロナ禍による来園者減。度重なる苦境を乗り越えられたのは日本各地からの応援があったから

草津熱帯圏
ハイシーズンのみならず、年間を通じて来園者で賑わう

エリマキトカゲブームは、施設経営に大きな影響を与えたのですね。

今井:そうですね。お盆の時期には、1日の売り上げが200万〜250万円に達することもあり、これは1カ月分の売り上げに匹敵するほどの金額でした。このブームのおかげで施設の借金を返済し、社員の給与も支払うことができ、新年を笑顔で迎えることができました。しかし、その後施設のボイラーが故障してしまい、その修理には約5,000万円もの費用がかかりました。正直なところ、エリマキトカゲブームがなければ、当時は資金難に陥って倒産していたと思います。

エリマキトカゲは、施設にとってまさに救世主のような存在だったのですね。

今井:えぇ。その後、来場者は年間18万人から19万5千人ほどに増加し、この3年間はまさに笑いが止まらないような時期でしたね。しかし、平成に入りバブルが崩壊して大変な時代に突入していきました。

平成のバブル崩壊は、草津熱帯圏にも影響を与えたのでしょうか?

今井:1994年の8月には、前月比で少し売上が減ったなと感じていたのですが、翌月から売り上げが前月比2割減という月が続いていました。その後8年間にわたって入園客が減り続け最盛期の30%になってしまい、金融機関の指導であるホテルの傘下に入ってしまいました。しかし、そのホテルも2009年には倒産し、民事再生法の手続を行いました。草津熱帯圏も閉鎖の対象となりましたが、動物の命とスタッフの生活を守りたいと草津熱帯圏を買い取りました。

草津熱帯圏の経営者・園長として、新しいスタートを切られたのですね。

草津熱帯圏 / 今井敏夫
動物たち1匹1匹に声をかける今井さん。動物たちとの信頼関係が伝わってくる

今井:2011年には東日本大震災があり、多くの人々が被害に見舞われました。同時に草津熱帯圏の来園者も、昨年同月比で8割減にまで落ち込みました。そんな時、お客さんから「熱帯圏を盛り上げるため、サポーター会員制度(※)を導入したらどうか」とアイデアをいただき、すぐに実行しました。草津熱帯圏の存続はもちろん、動物とのふれあいを通して、子どもたちの優しい心を育み、生き物の大切さを学んでほしいと願いスタート。そのこともあって、おかげさまで全国各地からたくさんのご支援をいただきました。

草津熱帯圏オープン時から飼育されているフラミンゴ
草津熱帯圏オープン時から飼育されているフラミンゴ。居心地の良さが長寿の秘訣なのかもしれない

サポーター制度は、草津熱帯圏にとっても、サポーターにとっても大きな意味を持つものですね。

今井:この他にも、動物たちのエサとしてバナナやみかん、りんごなどを提供してくれる支援者が増え、ありがたいことに寄付が続きました。新型コロナウイルス感染が始まってすぐの2020年、ある方が突然100万円を持ってきてくださったんです。その方は、「今井さん、これを屋根の修理費用として使ってほしい」と快く寄付してくれました。本当にたくさんの方が草津熱帯圏に心を寄せてくれ、寄付をしていただいています。

草津熱帯圏が多くのファンから愛されていることを実感しますね。

草津熱帯圏 / 今井敏夫
草津熱帯圏の一番人気は「カピバラ」。週末にはエサやり体験も可能

今井:何より嬉しかったのは、温かいメッセージを手紙で送ってくださる方がたくさんいたことです。妻は、全国各地からの手紙を涙ながらに読んで大切に保管しています。みなさまの温かい支援と、スタッフの懸命の努力があって、今の草津熱帯圏が続いているのだと思います。本当に感謝しています。

最後にメッセージをお願いします。

今井:多くのお客様に、動物たちとの触れ合いを通して心の癒しを感じていただきたくて、昨年「ふれあい館」をオープンしました。アフリカのサハラ砂漠地域に生息するフェネックやミニブタ、ナマケモノなど、さまざまな動物たちを間近で見ることができます。子どもから大人まで動物と触れ合うことで、精神的な安らぎを感じてもらえると嬉しいですね。

※動物園の運営を支援するための会員制度

草津熱帯圏 / 今井敏夫

草津熱帯圏

アクセス:湯畑から徒歩約10分
住所:群馬県吾妻郡草津町草津286
営業時間:9:00~17:00
定休日:年中無休

http://nettaiken.com/index.html